07年9月1日。苫小牧市樽前,錦大沼公園アルテン。前翅長19mm。
苫小牧では夏の蛾。
画像では赤みのある茶色だが,実際の灯火下では,かなり黒ずんで見える。あまりうだつの上がらない蛾ではある。
翅頂がしっかりした鉤になっているのが特徴の一つ。後翅のラインも少しくぼんでいる。何か有益な機能があるとは思えないから,たまたまそういうデザインになったということだろう。人の目を楽しませるには十二分に有効である。
同日,同個体。
前縁に力が入って盛り上がる。立体的である。これもまた,擬態としての意味があるのかは疑わしい。
こうやって考えていくと,結論としてクロスジカギバは何をしたいのかよく分からない蛾である。
翅の色が「枯葉」だというのは,とりあえず理解できるのだけどねえ。それでいいのかと聞いてみたいような気もするが,きっと当人は満足に違いない。
和名の「クロスジ」は外横線から。おそらく「アシベニカギバ」との比較からついた名前だろう。アシベニカギバでは外横線が黄色で,しばしばそれが末広がりの太い帯になる(「みんな蛾」の「アシベニカギバ」参照)。
その線が黒いから「クロスジカギバ」という算段。この同属の2種はかつては「フトカギバ亜科」として他のカギバガから分離されていたこともあるのだから,連携した名づけはなかなか悪くない。
同日,同個体。
ところが,学名Oreta turpisの方はあまりかんばしくない。
種小名turpisを辞典で引くと,「みにくい,恥じるべき,不道徳な,見苦しい…」とくる。この蛾は最低な印象を命名者に与えたに違いない。何もこんな名前をつけなくも。
それに比べて,概して和名は穏健な命名がほとんどだと思う。日本人と欧米人の虫に対する感性の相違か,それとも「単なる記号としてラテン語」であって母語でないから無頓着なのだろうか。
そういえば最近,新種の蝶の命名権を売りに出したというニュースがあったが,もしも買い取った者がturpisなんて名をつけたなら,売り渡した発見者はさぞかし落胆しただろう。
属名のOretaはおそらく,ヘロドトスの『歴史』に出てくる,サルディス(今はトルコの町)のアケメネス朝ペルシア時代のサトラップ(知事みたいなもの)の一人であるOroetes(ギリシア名)に由来すると考えられる。サルディスといえばペルシア帝国の西端の,ギリシアをにらむ重要都市であるから,オロエテースは相当な大物だったろう。とはいえ,もちろん蛾とは全然関係なさそうである(調べるのにかなりの労力を費やしたのだが,とんだ骨折りである)。
「虫」とは物理実体であるばかりではなく,人々のまなざしによって形成され語られる文化的現象でもある。現物を観察すると同じくらい,図鑑を読まねばならない。
北隆館『昆虫大図鑑1』。
触角は扁平,葉片状。次種(引用者註:アシベニカギバ)より大型で翅頂は一層強く鉤状,外縁の中央は更に出張る。(p.175)
触角は下の通り。
06年8月26日。苫小牧市樽前,錦大沼公園アルテン。前翅長23mm。
保育社『蛾類大図鑑』。
口吻及び翅刺を欠く。脚は長毛でおおわれ,後脛節に内距を持たない。(下巻,p.5)
翅に関する記述を欠く。見て紛らわしい要素はない,ということだろうか。引用箇所以後,関心は幼虫に移り,4行が費やされる。
講談社『蛾類大図鑑』は最も詳細である。
翅型はアシベニカギバとよく似ているが,前翅の黄色線の内側は黒線によって縁取られ,多くの場合黒褐色または黒色の内横線をもち,横脈付近は他の部分より色彩が濃厚。後翅には個体により内外両横線または外横線だけをあらわす。(p.417)
「または」2回で示される,個体変異に関する知見の蓄積。新種や亜種に対する関心が強く反映されているとわたしは見るが,どうだろう。
クロスジカギバの幼虫・成虫について,ネット上では「おまぬけガーデニング」(J.Sky氏)内「クロスジカギバ観察記」が圧巻。3cm程度のサイズに日頃慣れきっているわたしにとって,手乗り画像での成虫の小ささはあらためて新鮮だった。
○『原色昆虫大図鑑T』;北隆館,1965
○『原色日本蛾類大図鑑(下)』;保育社,1971
○『日本産蛾類大図鑑』;講談社,1982
(08年2月3日記)
yyzz2;虫画像 虫よもやま